陶 濬(とう しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州丹陽郡秣陵県の人。父は陶基。兄は陶璜。弟は陶抗。子は陶湮・陶猷。孫は陶馥。甥は陶回。『三国志』呉志に記述がある。また、子孫や一族については『晋書』巻57 列伝第27 陶璜伝 に記述がある。

生涯

父は交州刺史であった。兄も交州方面で活躍し、後に使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧となった。弟は太子中庶子となっている。

天紀3年(279年)夏、郭馬が広州で叛乱を起こした。郭馬は都督交広二州諸軍事・安南将軍を自称し、広州刺史と南海太守を勝手に任命した上で、さらに蒼梧郡・始興郡へ侵攻してきた。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、始興で抵抗を受け先に進めなくなった。このため、徐陵督であった陶濬が7000人を率いて、兄と協力して援軍に赴くことになった。

同年冬、晋が大軍を動員して呉に侵攻してきた。陶濬は交州への援軍に向かっている最中、武昌において晋の侵攻を聞いたため、広州には向かわなかった。

翌天紀4年(280年)、呉軍が各地で敗北を重ねる中、陶濬は武昌より建業へと帰還し、孫晧に謁見した。陶濬は「益州方面から侵攻してきた晋の船は小さいものばかりであり、大船と2万の兵があれば撃退可能です」と上奏して許され、節と鉞を与えられた。陶濬が敗残の軍を一つにまとめて晋軍を迎え撃とうとしたが、一夜のうちに兵が怯え逃げてしまった。この一件で孫晧は完全に戦意を喪失し、降伏する事となった。

呉における最終官位は、鎮南大将軍・荊州牧までになったという。

晋朝では薛瑩らと同様に散騎常侍に就いたようで、『陶氏家傳』によると、博学で文章や応対が上手く、また容姿も美しく朝議で同僚らを導き、君子を推薦したとされる。

2人の子はそれぞれ晋で官職につき、名声を得たという。

小説『三国志演義』では、上記と同様に孫皓に晋軍迎撃を進言し、前将軍・張象と船に向かうと、突然の大風で旗が倒れ、不吉に思った兵士たちが逃亡してしまう、という史実を脚色した描写がされる。

家系図

参考資料

  • 『三国志』
  • 『晋書』
  • 『三国志演義』
  • 『陶氏家伝』

脚注


学生团队同济大学土木工程学院水利工程系

陶明濬_360百科

陶濬

【我眼中的“一带一路”】陶安:做好中塞文化交流的“螺丝钉”国际合作与交流处、港澳台事务办公室

陶稷庐濬宣毛笔手札一页提及《诗韵》出版事_孔夫子旧书网