張 宓(ちょう みつ、? - 至正4年4月8日(1344年5月20日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯(漢人軍閥)の一人。字は淵仲。済南を中心とする大軍閥を築いた張栄の孫にあたる。
『元史』には立伝されていないが『山左金石志』に収録される「済南郡公張宓神道碑」にその事蹟が記され、『新元史』にはこれらを元にした列伝が記されている。
概要
張宓は済南の漢人世侯であった張栄の息子の張邦憲の息子で、幼いころから質子(トルカク)としてカイシャン(後の武宗クルク・カアン)に仕えた人物であった。カイシャンからはマングタイ(蒙古台)というモンゴル語名を与えられている。
大徳11年(1307年)、カイシャンが即位すると尚沐奉御の地位を授けられた。ある時カイシャンより古代の聖人について尋ねられた時、張宓は出身地の済南に帝舜の廟があることを紹介して舜のように司法を行うべきであると進言した。後に山東地方で蝗害が起こった時、張宓が舜の祠で祈祷すると、雨が降り始めて蝗は尽く死んでしまったという。これにより張宓は金織衣を下賜され、以後大いに用いられるようになった。
至大4年(1311年)、カイシャンの弟のアユルバルワダがブヤント・カアン(仁宗)として即位すると、張宓に秩二品の官職を授けようとしたが、 張宓はこれを固辞した。そこでブヤント・カアンは直々に張宓を論して三品の官職を授けたという。また、ブヤント・カアンは後に海東青鷹を賜ることで恩寵を示している。
その後、知南陽府に転任となったが、赴任する前に兵馬司都指揮使の地位に改められた。至治3年(1323年)、皇帝ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)が暗殺されるという事件(南坡の変)が起こり、張宓は首謀者のテクシとチギン・テムルの討伐を命じられている。それから彰徳路総管に任じられ、盗賊の被害が大きいことを知ると、村ごとに太鼓を置き盗賊が来た時には太鼓で互いに知らせあう仕組みを構築したことで被害を減らしたという。
天暦年間頃に山北廉訪副使・保定路総管を務め、また平江路に移った時には大量の訴訟案件を裁いたことから人々はその有能さに平伏したという。
元統2年(1334年)には吏部尚書、元統3年(1335年)には嶺北行省参知政事を務めたが、この頃より病となり郷里に帰った。至正3年(1343年)、山東東西道宣慰使とされたが、至正4年(1344年)4月に自宅で亡くなった。同年5月8日に一族の歴城の墓所に葬られている。
済南張氏
脚注
参考文献
- 『愛宕松男東洋史学論集』第4巻 (元朝史)、三一書房、1988年9月。NDLJP:12171554。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001938616。
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊; 65(新装版3)〉、2004年。ISBN 4876985227。国立国会図書館書誌ID:000007302776。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776。
- 堤一昭「<論説>李璮の乱後の漢人軍閥 : 済南張氏の事例」『史林』第78巻第6号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1995年11月、837-865頁、CRID 1390572174799773312、doi:10.14989/shirin_78_837、hdl:2433/239347、ISSN 0386-9369。
- 『新元史』巻140列伝37張宏伝

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